星恂太郎~星恂太郎~(ほしじゅんたろう)天保11年10月4日~明治9年7月27日 享年36歳 仙台藩士 大番士百七十石 額兵隊隊長 自ら「忠狂」と名乗り信念を貫きとおした男、星恂太郎。 仙台東照宮宮司、星道栄の息子。 生来の潔癖さと喧嘩っ早さのため家業は継げぬと判断され藩の台所人、小島家に養子に出される、が包丁を握るのを嫌がり結局生家に逃げ帰り武芸に励んだ。 長ずるに初め尊皇攘夷を唱える過激派であったが、開国派の家老但木土佐の暗殺に失敗し逆に攘夷、暗殺の愚かさを説かれ考えを改めることになった。 その後脱藩し江戸で洋式兵学を学び、横浜ではアメリカ人貿易商ウェン・リード商会に勤め、語学や諸外国の知識などを身に付けた。 慶応4年閏4月、脱藩の罪を許された星は仙台に戻り、30歳未満の藩士の次男、三男で構成される額兵隊の隊長に抜擢される。 洋式銃隊である額兵隊はその装備品も全て洋式で、銃火器はもちろん隊服もその当時では珍しい、イギリス式の赤い洋服であった。 装備品の殆どが横浜で知り合った貿易商人ウェン・リードから購入。藩からの再三の出兵命令を拒否しひたすら調練と弾薬の製造に努め、9月ようやく出撃準備が整うが時すでに遅し。 仙台藩は西軍に対して恭順降伏の意を示し、彼らはただ一度の実戦を行うこともなく戦う場所を失った。藩の降伏に憤りを感じた星は額兵隊を引き連れ藩を脱し、そのとき松島湾に投錨していた榎本ら脱走軍に合流。たどり着いた蝦夷の地で戦いの場を得たのだった。 蝦夷地上陸後は土方隊として陸軍隊・衝鋒隊と共に行軍。 そのときの様子を日記に残す 「天色朦々、寒風肌を裂くがごとし。寒威を犯して進軍す…北風ますます激しく、雨雪混じり降りて、将より卒に至るまで、身に纏うに単衣の戊服を纏うのみにて、足に袋なく、頭に華笠なく、満身濡れざる所なく、四肢亀手してほとんど凍餒(凍えて飢える)せんとす。」 鷲の木―森―砂原―川汲峠―湯ノ川―五稜郭。 その後の松前平定にも土方軍として行軍 その後の編成で第二列士満第二大隊隊長となり、土方さんの下に付く。 翌明治2年4月乙部に西軍が上陸し、額兵隊は木古内、矢不来を守備、遊撃隊らと共に戦う。 同月29日の戦いでは陸海からの攻撃にさらされ撤退。あまりの惨敗に自刃しようとするが止められ、敗走。 千代ヶ岡の守備に着く。 5月にはいると榎本に嘆願し額兵隊・衝鋒隊・遊撃隊・彰義隊らと共に七重浜へ夜襲を掛け有川まで進撃。 11日、弁天台場を救出に向かう土方さんについて出撃するが敗走、千代ヶ岡へ退く。 五稜郭降伏の5月18日まで戦いつづけた。 明治3年5月、弁天台場での謹慎放免後、恂太郎は他の仙台藩士等と共に、日高洲沙流郡の仙台藩開拓方へ送られ開拓作業に従事するが、約1カ月後の同年7月9日、開拓方は解散となり、現地に残る者もいたが、恂太郎は仙台引揚者の代表となっていたのでこの時点で一度仙台へ戻ったと考えられる。 その後どういう経緯があったかは不明だが、この翌年の明治4年3月7日、開拓使十五等出仕を拝命し、岩内郡掘株製塩場詰となったが、業績不振で明治5年11月に製塩所が閉鎖と決まり、恂太郎は責任をとって開拓使免職、のち上ノ国で興業を起こそうとした等の話もあるが定かなことはわからない。 明治9年7月27日仙台で病没。37歳 青葉区清浄光院に墓碑 ちなみに… 恂太郎の碑は榎本武揚題額 恂太郎の妻・つるは金成善左衛門の妹で仙台出陣にあたり、恂太郎が金成善左衛門に願い、つるも承知したので嫁に迎えたのだという。 つるはこの時17才であった。恂太郎とつるの間には二女があり、長女は榎本対馬の次男、孝三郎に嫁ぎ、次女は樋口忠一に嫁いだ。つるが没したのは大正15年9月1日。享年75才。 (参考・「仙台戊辰史」) |